🎬What I watched this week🎬
BBCのドキュメンタリー、「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」を見た。
日本では知らない人はいないであろうジャニーズ事務所の創設者、ジャニー喜多川氏の性加害疑惑についてのドキュメンタリーである。
彼が年端もいかない少年(小学校高学年から、中高生くらいまで)を性的に搾取していた疑惑に関する取材をまとめたものである。番組中で紹介されているが、疑惑とは言うものの裁判もされていて、裁判所は事実を認めている。
そんなに厳重に隠された話ではないし、そもそも裁判になっているので公の事実である。僕でさえ噂話程度には知っていた1。
しかし、いわゆるマスメディアでは取り上げられたことはほぼない。政治家がカップラーメンの値段を知らないのを新聞・テレビが大真面目に批判している国2で、巨大企業の社長が自社のタレントに性加害をしてもほとんど何の報道もないとはどういうことなのか。
そして、そんなジャニー喜多川氏だが、2019年に亡くなった。お別れの会の際には、当時総理大臣であった故・安倍晋三氏が弔電を送っている。
もちろん、戦後の日本社会に重大な影響を与えた人のひとりであることに疑いはない。しかし、常識的に考えて性犯罪者に一国の総理大臣が弔電を送るのはどうなんだろうか。
そう、論理的に考えればそう思う。しかし同時に「でもジャニーさんなんだよな」と心で思ってしまい、理解してしまう自分もいる。
このドキュメンタリーは自身が被害にあった、あるいは他の子が被害にあったのを見聞きした男性が3人登場する。
そして、BBCのリポーターが困惑することに、被害者は「ジャニーさんが大好きだ」という。被害にあってもなお。自分の仲間が被害にあってもなお。ジャニーズ事務所に入った少年の親も、そのウワサを承知で入れていたというのだからすごい話である。
番組では「波風を立てないことを美徳とする日本社会の問題である」とか、「これはグルーミングである」というような言い方がされている。
世相を反映しているのは法律もだ。日本では性犯罪を取り締まる法律は2017年に強姦罪から強制性交等罪に名前が改められた。これは明治時代から2017年まで性犯罪の被害者は女性に限定されていたことを意味する。つい5年ほど前まで日本で男性が性被害を受けることは法的にはなかったのである。
つまり、男性も性被害を受けうるのだという社会認知が進んだのはついぞ最近のことだということだ。ジャニー喜多川氏がいつから性加害に及んでいたのかは今となっては不明だが、間違いなくほとんどの加害はこの法律の施行前であろう。
だが、日本に生まれて日本に生きる男性の自分としては、そんな簡単に説明しきれるものでもないと思う。
被害にあったにも関わらず、時に笑顔でジャニーさんの話をする人たちの映像を見て僕は「理解」してしまうのだ。そう思うよなって。なんでそう思うのか、全然説明できないのに。なんで「理解」できるのか、全く言語化できないのに。
そしてジャニーさんじゃなかったとしても、例えば相手が女性だったとしてもきっと気丈に振る舞うと思うのだ。被害を受けたと告発するなんて発想がそもそもない、自分が被害者であるという自覚さえなくても不思議ではないと思うのだ。
なんだろうこの感じ。なんなんだろうこの感じ。少なくとも、論理的に説明されて変わる考えではないと思う。
📕What I read this week📕
資本論第1巻のこれほどかというほどのていねいな解説
『マルクス 資本論 シリーズ世界の思想』(角川選書; 佐々木隆治)を読んだ。
前にブログに『資本論』を読み始めたという記事を出した。資本論の原文を読むことは目的であり手段なのでいきなり『資本論』を読むこともありなのだけど、ひとまず解説書を一冊読んでから読んだ方が理解が進むであろうということでまずは解説書から読んだ。
佐々木隆治さんは「a scope 資本主義の未来編」というポッドキャストにも出演されていて、この話も面白い。
この本の本源的蓄積に関わる解説を読んでいて、『1940年体制 - さらば戦時経済』(野口悠紀雄)を思い出した。
というのも、この本は日本の戦後の経済体制が戦時体制により作られたものであると説く。その意味するところは、日本の戦後社会を作ったのは地理的な要因でも民族的な要因でもない、システムが作り出した体制であり、それは変わりうるものである3という主張をする本だ。
資本主義も同じことが言える。現代でも主流の経済学は、資本主義は人類が自然に到達したシステムであるという発想でできている。漠然とそう思っている読者も多いかもしれない。
しかし、この本では最後の方に資本主義がいかにして始まったか、そしてその始まりはどのように強制されたかが書かれている。その強制は暴力を伴うものであった。具体的には大量の労働者——今までの仕事を追われて家もカネも土地も仕事もなにもない状態に追い込まれた人々——を生産することが、資本主義を始めるためのひとつの必要条件だったのだ。
日本も例外ではなく、同じような人為的な労働者の生産(松方デフレ)があったという話は、少し前に紹介した『武器としての資本論』に詳しい。つまり資本主義はときの為政者や権力者が暴力も含めて人為的に作ったシステムであるといえる。
言い換えれば、資本主義は人類最後の経済システムではないし、唯一無二の経済システムでもない。これから新しい仕組みが誕生する可能性は存分にあるということだ。
このような、自分が絶対的に真理と思い込んでいるものが揺れる瞬間は本当に面白い。
この1年で僕の見る世界はかなり見え方が変わった。民主主義も揺らいでいるし、資本主義も揺らいでいる。そして非西洋社会から異なる秩序が始まってもいる。
近代のパーツを徹底的に学ぶことで、本当の意味での「現代」に一歩でもたどり着けるのでは。そんなことを改めて感じた。
古くて新しい近代政治思想 社会契約論
ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズという系譜を辿っていくことで、近代政治思想の根本である社会契約論の概要を解説していく本である。
社会契約論とは、人がたくさん集まって社会を構成するときにどのように秩序を作っているのかを理論的に考察する。人は自然状態、つまり一切の秩序がなければ殺しあっても奪い合っても強いものが勝つ。しかし現実は国家があったり統制する機関があって無秩序ではない。
ではどのように秩序は作られていくのか。それを理論的に考えるのが社会契約論である。
教科書に載っていて知っていただけの人たちのことを少し深く知った。ホッブズのイメージは『リヴァイアサン』というタイトルや「万人の万人による闘争状態」ってなんやねんとかその程度しかなかった。しかし、ホッブスの人となり、人間社会(特に自然状態)をどのようなアナロジーで捉えていたかは非常に独創的で、なんだか不思議である。
フランス革命を勉強していて、革命家たちはみなルソーを読んでいたらしい。ということは僕もルソーを読まないといけないなということで『社会契約論』を読んでみたが意味がわからず、本書を手に取ってみた。
ルソーがすごい難しいことを言っていることはよくわかった。しかしどうもしっくりきていない。まだまだわかっていない、思考が足りていない感じがする。
なんだかやる気がしなくて先週は一切の更新を休んだ。
このところ、脳のリソースの大部分が仕事に持ってかれている。忙しい。なぜ忙しいのかよくわからない。
整理してみたら、会社で4つの役割をしていることがわかった。会社で4つの役割をしていると家庭(といってもひとりだが)で複数の顔を持つことが嫌で、あまり誰にも会っていない。
考えてみると、僕はいろいろな顔をしている。部下のように振る舞っていることもあるし、上司のように振る舞っていることもある。チーム外の人に依頼や交渉をすることもあれば、協働することもある。組織外の人と話すこともある。それぞれ全部違う顔だ。
僕はたくさんの人と話すことが基本的に好きじゃない。ていうか基本的に仕事じゃない限りコミュニケーションなんてしたくない。そしてその仕事でのコミュニケーションが多くなっているのであれば、ずっとひとりであろうとするのは自分の反応としては自然である。何度も同じ反応をしている自分を見てきた。
家にひとりでいれば、ほとんどずっと同じ人格で居ればよい。それが気楽だ。
とはいえ、家でも仕事の本を読んでいたりもする。スマホで「読まれる」「つながる」文章術とか編集者視点を学ぶにはどうすればいいんだろうかと思って読んでいるし、マネジメントの本とかも結構な冊数を積読している。
休日にすることがないと読書しかすることないが、勉強したい題材の中に仕事関連のものも含まれている。だから結局、仕事と生活が分離していない。
とはいえ分離していないことは悪いことではない。ワークライフブレンドという概念を知ってから分離させる意思もなくなった。思ったより僕は仕事が好きらしい4。
こんなに仕事が好きなら、そろそろこの趣味である個人発信も実はやめてもいいのかもね。
昔アルバイトをしていた古本屋で、ジャニー喜多川氏の性的搾取を告発する本が店頭に並んでいたことがあった。どんなタイトルだったかは忘れたが、プレミアがついていてかなり高価だったのを覚えている。
当時の首相だった麻生太郎への批判である。
もちろん、容易に変えうるわけではないし人為的に意図した形で変えられる保証はどこにもないが。
賃労働が好きなわけではない。