人の尺度で生きるな
親譲りの不器用で子どもの時分から損ばかりしていた1。
自分が正しいと思えることしかできない。自分が正しくないと思うなら、ルールにも法にも神にさえも従う道理などないと思っている。だって僕は常に“正しい”からだ。
そんなスタンスで生きていたおかげで中学生くらいまでは苦労した気がしなくもない。民主主義が適用されている場所に産まれたからなんとかやっているけど、全体主義国家や社会主義国家で産まれていたらあっさり投獄されたり粛清されたりしている自信がある。
もちろん失敗したこともあったし、反省した時期もある。しかし今になって、どうもこれでよかったのだと思うようになってきた。
答えのない時代
かつては“答え”があった(僕はそんな“幸せ”な時代を生きたことはないが!)。強固な社会通念があった。典型的な幸せがあった。それ以外の選択肢が事実上存在しなかった。
人権の概念が広がるに従い人は選択をできるようになった。結婚をするのかしないのか、子どもを育てるのか育てないのか。仕事をするのかしないのか、転職をするのかしないのか。東京に住むのか地方に住むのか海外に住むのか。
日本に生きていれば理論上は自由に選択できるし、一応建前上はどの選択をしても誰かが阻むことはできない。
大変喜ばしい、素晴らしいことである。
しかし同時に僕たちは選択できることに難儀もしている。
選択肢が多すぎるからこそ決められない。こんなにもたくさんの映画をいつでも見られるのに、みんな他人と同じものばかり見ている。毎年毎年、年末には「買って良かったもの」という記事が乱立し、みんな似たようなものばかり買っている。
そして選択にはとても辛い側面もあるのだということも認識させられた。
意思決定の自由は言い訳ができない状況も同時に生み出す。自己責任だ、自分の能力の問題だという言説が蔓延るのは自由の裏返しでもある。
そして選択から逃げるため、人は答えを「探し」だす。検索エンジン、インフルエンサー、AIといった存在による「答えの提示」に満足して、何かを得た気になって今日を終える。
それが現代社会だ。
自分に向き合え
選択肢が洪水のように溢れかえっている社会で、自分がどのように選択をすればいいか。
まず当たり前だが、自分の外に答えなどない。
君の友人も恋人も配偶者も両親も君のことなんてよく知らないのだ。君のかかりつけ医は君の病気には詳しいかもしれないが君自身に詳しいわけではない。Googleは君に適切な広告を表示することはあっても適切な選択肢を提示してはくれない。君が慕っているYouTuberも君のことなんて1ミリも知らないで、フォロワーに向かって金儲けのために答えを提示しているだけだ。
答えは常に自分の内側にしかない。自分が何がしたいのか、自分が何をすべきなのか、自分は何をしてしまうのか。その全ては自分の中にあることから決めるしかない。
そんなことは誰もが知っている当然の事実だから、本来ならば僕が指摘する必要など全くない。だが、ダイエットをしている人が「適度な運動と健康的な食生活が何より重要である」以外の答えを求めてしまうように、誰もが知っている当然の事実だからといって誰しもがそれを受け入れられるわけではない。
とはいえ受け入れているか否かに関係なく、自分の考えは自分が既に表現し尽くしている。自分をよく見ることだ。
正しいと思えることをせよ
正しいことを探すな。自分が正しいと思うことをしよう。
正しいことなんてこの世にはない。そんなものは幻想だ。“答え”があった時代だって別にその答えが正しかったわけではない。
自分で自分を正しいと肯定できることだけが本当の自分の選択だ。あなたが正しいと思うから正しいのだ。そこには理由なんて必要ない。論理的な理由である必要もないし、他の人を説得する必要さえもない。
でも、とあなたは言い訳を思いつくかもしれない。他の誰かはあなたを間違っているというかもしれない。同意はしても協力はしてくれないかもしれない。自分で出した答えでも他人からのリアクションを見てとても迷うかもしれない2。
でも同時に、「君が信念を貫こうとすることを誰にも止めることはできない」3のだ。
他人の尺度で生きるな
最後に、誰かの尺度で生きるな。自分の命を自分以外だけのために使うな。そんなつまらない形で命を粗末にするな。
あなたがあなたらしく生きることに価値がある。全力で生きよう。
最近読んだ本
今週は2冊紹介する。
独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた
独占告白 渡辺恒雄(安井浩一郎)
1945年、19歳で学徒出陣により徴兵され、戦争と軍隊を嫌悪した渡辺。政治記者となって目にしたのは、嫉妬が渦巻き、カネが飛び交う永田町政治の現実だった――。「総理大臣禅譲密約書」の真相、日韓国交正常化交渉と沖縄返還の裏側、歴代総理大臣の素顔。戦後日本が生んだ稀代のリアリストが、縦横無尽に語り尽くす。
言わずと知れた読売新聞社の主筆。御年96歳の渡邉恒雄氏へのインタビュー番組が書籍化されたということで読んでみた。
戦前の渡邉恒雄氏が当時兵士が自由に4扱えたものが寝具の枕だけだったので、その枕にカントの『実践理性批判』を忍ばせていた哲学青年だったという。終戦の日の玉音放送はよく聞こえず「天皇がなんか言ってる」と表現していたのは当時の記憶がある人だからこその表現だと思った。
書籍からは渡辺氏本人の言葉よりも、その他の専門家や当時を知る関係者の言葉のほうが多い印象を受けた。番組は見ていないが、NHKオンデマンドで見られるようなのでそのうち見ようかと思った。
ところで筆者は渡邉恒雄氏が、というより読売グループが嫌いである。もう昔から、小学生のときからずっと。読売新聞を手に取ることはないし、日本テレビの番組はできることならあまり見たくない。なぜなのかは自分でもよくわからない。
しかし、マスメディアがかつてほどの勢いを持っていないとはいえども、いまだに業界内では読売新聞も日本テレビもトップを争い続けている。その事実は認めざるを得ないところだなと思う次第だ。
はじめての聖書
はじめての聖書(橋爪大三郎)
羊、クリスマス、十字架、ノア、モーセ、イエス、罪、
愛、最後の審判……聖書の重要ポイントをきわめて平易に
説き直す。世界標準の基礎知識への道案内。ほんものの
聖書を読むための「予告編」。
最近キリスト教に興味がある。近現代史に興味があり勉強しているのだが、言うまでもなく近現代史は西洋の覇権から始まるため近代以前、啓蒙思想以前を把握するためにはキリスト教の理解が欠かせないと感じるようになった。
そこで、そもそも聖書ってどんな話が載ってんだかよくしらねぇなぁということで読んでみた本。企画主旨から14歳でも読めるということで本当に読みやすいが、大人でも普通に日本に生きていたら知らないこと満載で面白いだろう。
例えば「愛」というキーワードがある。愛がキリスト教にとって重要なのは解説不要だろう。しかし日本語の愛という解像度で見ていると少しわかりにくい。
ギリシャ語には愛(Love)に当たる語は3種類あるそうだ。それはエロス(相手に価値があるので愛する)、フィリア(友だちなので愛する)、アガペー(相手に価値がなくても愛する)の3つであり神の愛はアガペーだと言う。
こうした細かなニュアンスの違いまで、平易に道を示しながら解説してくれる。一見してわかった気になれるとても入門に最適な本だなと思った。
終わりに
勉強したいことが多すぎて、テーマを決めて「しばらくはこれを勉強する!」と決めて網羅的に勉強したほうがいいのではという気がしてきた。
ずっと興味があるのは、日本および世界の近現代史である。しかし近現代史で深ぼろうとすると、日本だけでも幕末とか明治維新のような志士の時代と大正デモクラシー、ファシズム・戦後体制(全体主義)時代から戦後社会まで広範だ。前述のように、結局西洋の存在抜きに近現代を語ることはできないため、キリスト教がなぜか現れたり西洋哲学が現れたりせざるを得ない。
今に始まった事でないのだが、勉強すればするほど勉強することが増えて大変だと思う。
果たしてどうすればいいのやら。ひとまず生まれた国だし日本の近現代史を中心に勉強するのがいいかなとか思いつつ、今日は本屋でフランス革命の本を買ってしまった。やれやれ……
嘘である。親譲りではない。不器用なのは本当だ。
迷うこと自体は悪いことではないと思うし、間違いだったと感じたら立ち止まったり戻ったりしてもいいとは思う。
アジャイルサムライ - 達人開発者への道 監訳者あとがきより、抜粋改変。
上官や仲間に見られたり預けたりすることがほぼないもの。