#44 エンジニアリングから離れて見たもの ―― 問いとともに揺らぐ存在意義
人生32年間の振り返りその2。ソフトウェア開発に熱中した結果、却って絶望するまで。
今回も前回に引き続き、僕の人生の振り返りと題したエッセイをお送りします。
今回は第2回、大学院院中退と就職から、とある会社に在籍中に悩み始めるまでです。
23歳 - 学問をやめ事業に使われていた時代
大学院をやめた
就職前夜
2016年の10月31日。僕は名古屋駅の近くにある映画館で、仕事を始める前夜を過ごしていた。翌日から僕は京都に行く予定だった。
とある会社の人と一度会い、お昼にパスタを食べて、そのあとにメールを送ったらじゃあ11月から来てよって軽い感じのメールが返ってきた。
本当に働けるのか?と思っていたが、なんでもよかった。
どうせ、なにも失うものなどないのだ。
その日、その年の夏に公開された映画、シン・ゴジラをもう一度みていた。僕はもう何度もみていた。何度もみた結末がまた僕の目の前で繰り返された。映画って何度見ても結果変わらないんだよなと当たり前のことを思った。
次の日、僕は新幹線で京都に向かった。涙は出なかった。不安もなかった。ただ、世界はきっとそこまで残酷じゃないだろうという感覚だけがあった。
先を考えないまま、大学院休学
さて、あまり何も考えずに大学院に入学した。高校時代に、成績がよいことだけが拠り所だった僕のメッキがここでボロボロ剥がれ落ちた。
前回書いたような基礎力が不足しているという自覚をここで初めてしたが、僕はその現実を直視できなかった。直視できなかったので、休学した。
この経緯は、ブログ記事に書いてある。
数学を勉強できなくなったので休学をすることに決めた - Diary over Finite Fields
かくして、僕は8年かけて築いてきた学問をする自分を捨てた。
あっさりと捨てた。
せっかく大学院を合格したのにとか、この道を外れてどうしようとかも考えた。
それでももう、やりたくないことをやりたくなかった。よく言えば早く次の挑戦を始めたかったし、悪く言えばこの現実から逃げたかった。
プログラミングのために仕事をしていた時代
プログラミングを学び始めた学生時代
補助線として僕とプログラミングの出会いの話をしたい。
大学時代にプログラミングをやっていた。
始めは3年生でC言語の講義を受けた。やっているうちに自分に向いている気がして、その講義を受けたあとも自主的にプログラミングをしていた。
とはいっても計算機科学を専攻するような勉強とは程遠い。自分用の便利ツールを作って遊んでいただけだった。ファイル操作を簡略化したりするスクリプトを書いたとか。
開発の仕方にも気を使っていて、Gitを使ってバージョン管理をしていた。卒業レポートとかも、LaTeXの文書をバージョン管理してマクロも使ってEmacsのYaTeXとかを使って書いていた。
このような、あまりなにも考えずプログラミングをしていた経験が後に就職してから役に立つことになる。
機械学習エンジニアとして就職
さて、電撃的にある会社に入社し、しばらくして正社員になった。これも、以前に書いたことがある。
数学科の学部卒でITエンジニアになった事例 - Diary over Finite Fields
実はその会社には当時流行っていた機械学習エンジニアとして入社した。当時は当時でAIバブルだった(2025年現在もバブルである)のと、流行り始めてから歴史が浅かったために機械学習がめっちゃできる人みたいなのがそもそも市場に少なかった。
なので僕も、機械学習については1ミリも知らなかったし、Pythonもほとんど書いたことないのに機械学習エンジニアの仕事をすることになった。
ピンとこなかったビジネスパーソンの凄み
この会社でした経験にはいま振り返ると語るべきことがたくさんある。
明言するのが憚られるが、最初の1, 2ヶ月でそこそこ激しい経験をした。しかしなんやかんやで、僕は入社をすることができた。
当時の僕には響かなかったが、いまの僕の根本になっている経験をいくつもさせてもらったと振り返ると思う。
いまでも思い出すのは、その会社のトップの話だ。
その人がこんな感じのことを言っていた。記憶改変がされているかもしれないので、文責はあくまで僕にある。
ひとつ、経営は数字で語らなければならない
ひとつ、経営の仕事とは、結果を出すことだ
ひとつ、経営の結果とは2種類しかない。財務諸表と時価総額(評価額)だ
ひとつ、この2種類の結果のどちらを重視すべきかは企業のフェーズにより決まる
いま振り返れば、当然のことである。しかし会社員を曲がりなりにも8年やった僕が思うのは、これらは徹底することが死ぬほど難しいことがらでもある。この世の経営者でこれを実践していると神に誓って言える人が何%いるだろうか。
しかし、ある意味当然だが、当時の僕はその凄みがまったくわかっていなかった。なんか迫力あるな〜と思っただけである。
たしかこの話を東京駅の八重洲口付近の貸し会議室で聞いた。そのあとの懇親会の会場はプロント。僕にとっては普通の飲み会の延長だったが、なんだかわからないけど、みんなが楽しそうだった。僕にはみんなが楽しそうなことが不思議だった。
さっきの話でなんで人びとは鼓舞されたんだろう、ということが気になっていた。
プログラミングへの熱中
僕は僕で、学問の次はプログラミングに熱中していた。
仕事をするにつれて、学問をしているよりもプログラミングをしているほうが自分の感覚が生かせるのではないかと思い始めていた。
数学では自分の感覚があまり生きなかった感覚があった。
数学ではまず最初に誤りか正しいかを徹底的に問う。それはもちろん重要なのだが、そのあと正しいものの中でもさらに「良いもの」を見つけようとする。いわゆるエレガントってやつだ。つまり、正しい回答の中にもヒエラルキーがあり、より良いものを提示するほうが好まれる。
例えていうと、大学入試の数学の問題集でいう「別解2」のようなものだ。確かにその考え方で計算すると、途中式も短くあっさり解ける。しかし思いつくのは難しいもの。数学では同じ問題を解くにしても、このような解法のほうがより良いとされる。
僕はそれらの正しいものの中で、「良いもの」を感じることがあまりできなかった。正しいものを求めることは辛うじてできたが、より良いものを求める努力をしたいとは思えなかった。
しかし、プログラミングではそれができていると感じていた。与えられたコードが動くこととその後に継続的にメンテナンスしやすいかとを区別して、どちらの視点でも評価できると感じていた。
いまだに僕は自分はプログラミングに対する感覚はそこそこのものがあると自負している。設計の理屈とかはよく知らないけれど、目的を達成できてコストの低いコードを書け、というお題に答えるのが僕は得意だ。
身勝手な怒り
感覚が生かされている実感はあっても、僕はまだ物足りなかった。
自分が開発に携わったソフトウェアがなんの役にも立っていない気がしていたからだ。
その会社では受託の仕事をしていた。だから案件をこなせば売り上げは立つ。でも、会社の売り上げになってなんなんだろうと思っていた。
誰かが楽をできなければソフトウェアの価値は0である。誰かができなかったことをできるようにならなければ、ソフトウェアの価値は0である。正味0である。
こんな風に言うのは失礼だが、なぜ虚無にお金が動くのだろうかと僕は思っていた。
いまは大人になって、彼らは虚無にお金を払っているのではないと知っている。例えば、巨大な合意形成を得るための必要な投資であると認識していたり、予算の消化のための仕事があったりする。
でも当時はそんなことはわかっていなかった。
このようなことを感じていた時期に、『アジャイルサムライ』を読んだ。
この怒りは正当なものなのだと勇気をもらった気がした。プロのソフトウェアエンジニアとして一生を生きていこうと当時の僕は決意した。
いまもそのときした決意は揺らいでいない。だから僕は自分のミッションを「良いソフトウェア開発をする」と掲げている。
しかし、当時はあの本に書かれていることをよく分かった上で感動していたわけじゃなかった。『アジャイルサムライ』の真価を理解するには、しばらく時間が必要だった。
自分の力を高めるために転職
技術的な経験を広げた3社目
もう1社受託開発を経験したのち1、僕はSaaSを開発している会社から内定を貰い、転職することになった。職種も、機械学習エンジニアからサーバーサイドエンジニアになった。
その会社でもいろいろな経験を積ませてもらった。
事業会社を選んだ理由はふたつある。
ひとつはシンプルに使われているソフトウェアの開発がしたかったからだ。いつユーザーが使い始めるのかわからないどころか、成就するかもわからないPoCを回すのが嫌になっていた。
もうひとつは、ソフトウェアエンジニアとしての経験を積みたかったからだ。機械学習エンジニアだったから、AWSの使い方とかフロントエンドの開発とかがほとんどできなかった。
だから積極的に開発に関わらせてもらった。AWSを使った開発、TerraformでのIaC、DBのマイグレーションやデータの移行、認証認可についてなど様々な経験をさせてもらった。
そして人事的な部分にも少し関わった。技術広報としてブログの立ち上げをやったり、採用面接に参加したりした。
経験は増えた。成果は増えたか?
一方で、いま振り返るとこの段階でまた自分のLv 0は始まっていたなと思う。
例えば、スケジュール管理ができなかった。PMとうまくコミュニケーションができなかった。プロジェクトを前に進めるスキルが低かったのだ。
しかしそうした様々な困難や課題を、困難とも課題とも認識せず過ごしていた。
大学時代と同じで、自分は愚かだった。仕事ができていないのに、仕事ができていると勘違いしていた。
だから様々なことをやらせてもらったが、技術的な経験以外が自分の血肉になった感覚がない。
それは100%僕の落ち度で、会社に落ち度はない。ビジネスパーソンとしての実力のなさと、学習意欲の低さを悔いている。
ソフトウェア開発をゼロから見直す
コロナ禍で目にした社会の停滞
入社した最初のうちは満足していた。プロダクトは実際に使われているし、自分も開発の経験どころかそれ以外の経験も積めると感じていた。
しかし、いつしか僕は停滞を感じるようになっていた。
ちょうどこの頃、コロナ禍があった。
社会が停滞している中、テック業界はむしろ躍進をしていた――株価だけは。
自宅にいる時間が増えた結果、Zoomが当たり前のコミュニケーションツールになった。ソーシャルメディアを見る時間が増えた。Netflixを見る時間も増えた。あらゆるSaaSがリモートワーク時代への対応を謳って煽った。
しかし、あとでわかるようにそれはただのバブルだった。最先端のテクノロジーはパンデミックに部分的な対抗をしたが、根本的には無力だった。
マーク・アンドリーセンは2020年のエッセイでこうアジテーションをしている(星 暁雄氏の記事から抜粋した)
交通機関もそうだ。どこに超音速旅客機がある? 数百万台の配達用ドローンはどうした? 高速鉄道は、天を走るモノレールは、ハイパーループは、そして、空飛ぶ自動車は、いったいどこにいった?
ご存知のように、2025年になってもこれらの姿かたちはない。そして、マーク・アンドリーセンがこのエッセイを公開した翌月に投資したのは音声SNSのクラブハウスだった。
コロナ禍が終わりかけていた2022年。テック銘柄は暴落した。
株価で過剰評価されていたのが、適正な評価に戻ったといえよう。イノベーションの裏付けがあったわけではないのだから、必然だった。
その年の末にChatGPTがリリースされ、ソフトウェア開発の世界も変わっていく。
絶望
この頃に僕はソフトウェアについて考える時間を得た。ステイホーム生活の中で年単位の時間をかけて、ソフトウェアにまつわる様々なニュース、業界の動向を把握し考えていった。
自分のスキルの幅は広がっているはずなのに、どんどん不自由になっていく感じがしていた。
Big Techの枠にハマって開発をさせられている気がした。AWSなしにはなにもできなくなっている気がした。
大学生のときはプログラミングそのものが刺激的だった。今のほうができることが多いのにつまらなかった。
その感覚が、現在にも連なるある大きな問いへとつながった。
よいソフトウェア開発とはなんだろう?
この問いをもって様々な本を読み、勉強会などに参加し、思索を深めていった。
そして僕は、様々なあまり言語化されていない常識に反する結論へとたどり着いた(これらの結論の一部は次回の更新で解説する)。
テクノロジーもプロダクトも世界を変えていない
ソフトウェアそれ自体で他社との差別化はできない
ソフトウェアエンジニアは職人気質であってはならない時代になった
こうしたことに気づいたとき、僕は絶望した。自分がソフトウェアエンジニアとして世界に貢献できると思っていたのはただの勘違いだとわかったからだ。
3年以上もの時間をかけ、問いに答えを出そうとし努力した。その結果、自分自身の存在意義が揺らぎ始めた。
「エンジニア」から「ビジネスパーソンへ」
いまから振り返れば、このときの僕に徐々に起きつつあったことは価値観の転換だった。
すなわち、プログラミングやエンジニアリングという手段に重きを置く人から、事業を前に進めることに主体的に関わる人に変わらないとどうしようもない、と考えるように変わり始めた。
それはつまり、23歳で大学院を飛び出してから30歳までどっぷりと浸かってきたテクノロジー、プログラミング、エンジニアリングの視点でものごとを見る世界から飛び出すということだった。
エンジニアをやめるわけではない。しかし僕の中で主と従がはっきりと変わった。主が事業であり、従がテクノロジーになっていくのだ。
リファレンス
次回は最終回。31歳での挫折と、いまなにを考えて行動しているかについてです。
前回の記事はこちらです。
長くなるので2社目のことは書かないが、そこでも人間関係のトラブルや経営の難しさを目にした。



