神のようなものを信じている僕
ふと、僕は神を信じていると気付いた。
最近キリスト教に関する本を読んでいる。信仰をするつもりはないのだが、読んで考えている過程で「この感覚、僕にも一部はあるな」と気付いたのだ。
僕はいくつか謎の信念や確信を持っている。まず、僕は絶対に誰かに護られているという確信がある。その加護のもとで僕の命はしばらく無事だろうとなぜか確信している。この感覚は何年も前からある。
おそらくこの感覚はあまり日本人ぽくない、と思う。いつ地震など災害に巻き込まれるかわからないのが日本だ。自分の身体を健康に保つため、食品や運動習慣のためにものすごい額のお金が動く国だ。自衛しなければ、という意識が高い人々の中で、僕は「誰かが護っているから万事OK」という意味不明な発言をしている。
次に、僕は僕を信じている。僕がやるべきことは僕が決定すべきであるし、僕が下した決定は絶対に社会のためになるものであると確信している。この全く根拠のない自信も、中学生のときには既に持っていた。僕が僕のやりたいようにやれば、他の誰も認めてくれなくても誰かは認めてくれると。
自分を肯定するロジック
その誰かが誰なのか、あまりちゃんと考えたことがなかった。人間ではない可能性が高いと思うくらいにしか思ってなかったが、もしかするとこれがまさに神を信じているということなのかもしれないと今日気がついた。
神というと、おそらく語弊がある。神道でいう神ではない。僕は神社にめったに行かないしおみくじもひかない1。ましてキリスト教、イスラム教、ユダヤ教2などがさす神でもない。ただ他に近い日本語がないので神と呼んでいる。
あえて神という言葉を使わないで解説するなら、自分自身以外にも自分を常に見ている存在があると確信している、というべきだろうか。その存在との距離感はとても遠くて、別に言葉を交わせもしないし何を考えているかはわからない。だけどたしかに、僕の近くに居る。
僕は孤独を感じたことがあまりない。それは文字通り、孤独ではないと感じているからだ。たとえ一人で過ごしていても、僕はひとりでいるという感覚があまりない。ひとり暮らしをしていても、僕は誰かに見てもらっている感覚がある。それで行いを正すわけでもないけれど、自分は自分のためだけに生活をしているわけではないという感覚が常にある。
僕の命は、その謎の存在に護られているという感覚がある。大病を患ったこともなければ、大きな事故や災害に巻き込まれたことも幸いにしてほとんど経験がない。それがいるおかげかどうかはわからないけど、そんな事情もあってきっとそいつが護ってくれているのだろうと思っている。
僕の行動も、その謎の存在に規定されている。厳密には僕の意思だし、僕は自分のやりたいことをなるべくやるように心がけている。だけど、僕が僕の意思通りに行動してよいということをその謎の存在は肯定してくれるから行動できている。
全力で生きるために
スピリチュアルな話かもしれない。しかし、考えれば考えるほど僕は自分ひとりで生きていないし、何か絶対的な何かと過ごしている。
その絶対的な何かと共に生きていることで、僕は他人のことを全然信じないくせに、僕をとても信じている。それがずっと前からずっと不思議だった。なぜ僕は僕のことを信じられるのか。自分をそのまま信じることは難しいのにもかかわらず。
しかし、誰かが信じた自分を信じるのは別に難しくない。他の誰かが、ましてそれが神と呼ばれるような絶対的で強い存在が信じた自分を、疑う余地はないだろう。
僕は便宜上、あまり神を信じていないという言い方をしてきた。実際、僕は神道に一切関心がないし、初詣に出かける人々を不思議な目で眺めているような人だ。
しかし、本当は既に自分だけが信じているなにかを持っているだけにすぎない。僕は信心深いのだ。誰かと共通言語をもたないものを信じているだけで。
そして僕は、そのなにかが信じている僕を信じている。だから僕は、僕のままで居られる。そういう感覚がある。
もちろん、迷いもある。怖いこともある。判断を留保することもある。意思決定がしんどいこともある。
でも、僕はその辺の誰かに僕の行いをどう思われたとしてもべつにどうだっていいと思っている。そんなことは社会にとって大した問題ではないし、そんなことは僕にとっても大した問題ではない。
僕の行いが絶対的に正しいとは思わない。だけど、僕の行いを僕の"神"が正しいと支持してくれているうちは、僕の行いは正しいと断言できる。その正しさを主張し続けるために、僕はそれに恥じないように全力で生きている。
ちなみに占いも見ないし信じない。死後の世界も信じていない。まじで信心深さ0だなこいつ。
僕はユダヤ人でないので、そもそも選ばれていないからユダヤ教を信仰する理由はまったくないのだけれども。