🎓What I thought🎓
前に書いた事情により、英語を書く機会が増えた。そして英語でコードレビューをしていた。
思えば英語でコードレビューをした経験は多くない。たまにOSSにコントリビュートしたことがあるけれども、当然ながらレビューはされる側だった。10年くらいプログラミングしているし、同じ期間GitHubを使い続けているけれど、他人から要望が来たこともPull Requestが来たことも数えるほどしかない。というか合わせて2回しかない。
そんなわけで、英語のPull Requestに自分があれはいいこれはよくないなどとコメントすることになった。
そんな仕事の日常風景を繰り返していたある日のこと、僕は英語でコードレビューを書くときWeという単語を多用していることに気づいた。そしてそれは発見だった。
We should use this method instead of your proposal, because …
We should make it clear to other developers.
We must rewrite this module, but we should not do it in the current circumstances.1
…
「そっか、Weなんだ」
自分のレビューコメントを見ながら、思わず声に出して呟いていた。
このとき、初めて自分が誰のためにコードレビューをしているかに気づいた。自分のためでも、コードを書いてくれたあなたのためでもなく、わたしたちのために、すなわちチームのために僕はレビューをしていたのだ。
そして何より、それに気づかせてくれたのがどんなビジネス書でもソフトウェア開発の本でもなく、英語という外国語であったということが面白い。
日本語を書いているとすぐに主語や目的語がぼやける2。それが関係あるのかないのか、僕はよく誰のためにやっているのか、なんのためにやっているのかを明確にしないでいることがある。
英語では感謝を告げるにもいちいち何に感謝するかを指定しなければならない3。招いてくれてありがとうはThank you for having meだし、協力していただきありがとうございますはThank you for your cooperationだし、いちいち指定せずにいろいろとありがとうと言うときもThank you for everythingと指定しないことをわざわざ指定する。Thank youって言えばいいのに。
もちろん日本語もいちいち主語を書くことはできる。コードレビューでも「僕らはこのメソッドを使わないから、このメソッドを使って欲しい」とか、「チームはこのモジュールを本当は書き直さないといけないんだけど、現状ではやらないほうがいい」。
しかし、これは感覚的な話だが、どうも気持ちの悪い、収まりの悪い日本語である。なんで僕らがメソッドを使わないっていちいち僕らって強調しているのだろう。なんでチームはとか言うんだろう。
中高生のころに「日本語は主語をよく省略する」と習った気がする。しかし僕の感覚としては、主語があると違うニュアンスを持った文章になる、というほうが正しい気がする。
さて、そんな発見をした僕は「これ英語で言ったらどうなるだろう?」というのをよく考えるようになった。
日本語だけで考えていると、やはり自然と誰が主語に相当するのか、何が目的語に相当するのかを見失いがちになる。その結果、本当にやるべきことを見失ったりしていなかっただろうか?と思った。
外国語学習は全く好きではない4が、というかむしろ嫌いだが、自分の思考の幅を広げる手段になるのなら身につけたいものである。
📚What I read📚
もしドラ読んで泣いた
『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を読んだ。発売当初、ものすごい話題を呼んだこの本の表紙は見覚えがある人も多いだろう。
この本が発売されたのは中学生のときで、僕は全くマネジメントに興味はなく読まないまま、そしてその存在などついぞ最近まで忘れていた。
カンファレンスで薦めていた人がいたので買ってみた。
そして読んでみて号泣した。ストーリーに涙したのではなく、この本の発想の素晴らしさに心を奪われたのだ。
主人公のみなみたちマネージャーは1on1をして個々人の想いをとらえて、裁量とインセンティブを与えることで個々のプレーヤーやチームのパフォーマンスを高め、そのうえ人事異動や評価さえもうまく活用してさらにチームを強力なものにする。そのプロセスがストーリーにしっかり噛み合うのだ。
小難しいビジネス書を数冊読んでわかった気になっていた僕にぴったりの一冊だ。
『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』
伽藍とバザール
fetchemailというOSSプロジェクトがLinuxプロジェクトの進め方を模倣したバザール(Bazaar)モデルという方法論で成功へと至る。その過程を詳説するという内容だ。
なんとなく名前だけはよく聞く文書だったので今回読んでみたが、そもそも論文でありそこまで長くない。fetchemailというメールクライアントの話なので、メールの仕組みさっぱりわからない(僕のことである)という人はとっつきづらいかもしれないが、意外と雰囲気でなんとかなるかもしれない。
もともと、『遠くへいきたければみんなで行け』を読もうとしたら前書きに伽藍とバザールを読んだ方がいいよ⭐️と書いてあったのでこちらを先に読んだ次第。ふんわり読んだが、読む意味はあった気がする。
ところで、Linusをカタカナでリーヌスと書くのには終始違和感があった。リーナスのほうが僕は見慣れている。
桜が咲いている。
今年はあまり見る気にならない。もともと、桜はあまり好きじゃない。
昔、太田光(だったと思う)が書いた文章で桜にまつわるエピソードがあった。
そのエピソードは次のような内容だった。太田光の妻(つまりは太田光代さんだ)が病室で桜をみて様子がおかしくなった。たしかバラを病室に飾ったら落ち着いたんだとか。
桜は美しいし欠点がない。その欠点のなさが恐ろしいのでは。そしてバラには明確な棘という欠点があるからよかったのではというような考察をしているものだったと記憶している。
(記憶がとても曖昧だが、どの本に書かれていたか思い出せないので裏が取れない。もしご存知の方がいたら教えていただきたい)
その文章を読むまで、僕は桜が好きだった。と思う。あまり昔のことはよく思い出せない。
しかしそのエピソードを読んで以来、桜をあまり直視できなくなった。まじまじと桜を見ているとどこか怖くなってくるのだ。吸い込まれるような美しさ。圧倒的な美の前にどこか萎縮する自分がいる。
夕食を外食で済ませようと歩いていた道中で、女の人がスマホで街灯に照らされる桜を撮影していた。あの人は吸い込まれないんだろうなって頭の片隅で思った。
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上記のレビューコメントはフィクションである。
この「日本語を書いているとすぐに主語がぼやける」という文章の主語もわからない。僕という個人の話だろうか?日本語話者の人々に言えることだろうか?しかしそこを明確にすると日本語としては不自然になる気がするのでやはり書かないのが良い気がする。
もちろん、Thank you. としか言わない場面も普通にある。
そもそも人間と会話することが好きではないので、会話の手段である言語を学ぶモチベーションがない。可能なら日本語も別に話したくない。