諦めてから人生は始まる
昔、「諦めてから人生って始まるんだな」と思ったことがある。
なぜそう思ったのかよく覚えていない。しかし、そのとき受けた感銘は印象深い。
その頃だったか、「諦めてから人生は始まる」というタイトルのプレイリストをSpotifyに作った。今も消してないので残っている。
いろんなことを諦めた。自分は天才ではないと認めたし、たぶん教科書に僕の名前が載ることはない。ひとりでできることなんてたかが知れているし、仲間を作る才にも長けていない。
ネガティブだからそう思っているのではない、自分のこれまでの行動特性から自己分析した客観的事実だ。
そのどうしようもない客観的事実を認めるのにはとても時間がかかった。しかし、認めることができたとき、僕は自分を許すことができるようになった。
何もできない自分を許し、さして成果を出せない自分も許した。
すると不思議なことに、自分にできることが増えた。今まで何もしなかった自分が、少なくとも自分が注意と情熱と時間を使えば少しはできることがある、ということを実感した。それは僕にはOSS活動をやってみると言った具体的な行動で現れた。
最近はなかなか英語力が上達しない自分もなんだかなぁと思っていた。しかしまぁ、焦っても仕方がない。喋ることができない自分も許す。そして自分を許すことで、他人も許そうと努力している。他人を許せない自分も許そうと努力している。
この記事を執筆する直前、とあるファミレスで店員のミスがあって待たされた。「この時間があったら」とつい一瞬考えたけど、冷静になってそれも許すことにした。お金に関することを間違えたとかなら困るが、そのようなトラブルではなかった。
だいたい、僕がたかが5分を得したって、逆に5分を無駄にしてイライラしたところで、誰にとってもなんのいいこともない。
「諦める」重要性を説く、『限りある時間の使い方』
唐突にこんな話をした理由は、『限りある時間の使い方』という本を読んだからだ。
タイトルからして、そして帯の短評からしていかにもビジネスマンが好みそうな「時間節約術」みたいなHow To本のように見えるし、「いかに重要なことにフォーカスするか」みたいな説教くさい本にも思える。
しかしこの本を開いて読んでみればすぐわかるが、想像とはかなり違う中身だ。真逆と言ってもいい。
この本は実践的なHow Toの話をするどころか、西洋哲学の偉人ハイデガーを持ち出して「人間とは時間である」などと哲学的な議論をし始めたり、時間を管理しようとするのは「諦めよう」などと言ったりする。挙げ句の果てに、エピローグでは「僕たちに希望は必要ない」などというメッセージまで添えられ、前書きと目次を読むだけでなんじゃこの本はと面食らうだろう。
しかし、冷静に考えると面食らっている僕たちがおかしいのだ。
冷静に考えてみてほしい。
時間を「コントロール」して節約して、浮かせた時間でできたことで大事なことが何かひとつでもあっただろうか?何か思い出せることがひとつでもあるだろうか?
こんなにも生産性を意識しているのに、毎日確実に物事を完了させているのに、本当に心から自分が大事だと思っていることがいつまでも終わらないと感じたことはないだろうか?
この本は、上のような疑問を持つ人にあてたものだ。
「時間の管理」は近代から始まった
結論からいえば我々は時間の管理なんてできたことはないのだと思う。
この本は近代(18世紀後半以降)になってから時間という概念をいかに人類が獲得したかから始まる。
もはや時計という概念があまりに浸透し過ぎてしまった現代で、時計がない時代の人類がどのような感覚でいたかを想像するのはとても難しい。
とても難しいということは、全くいまと違う捉え方をしていたということだ。
そもそも、農業従事者にとって時計なんてものは要らなかった。大事なのは日が出てるかいないかとか、いまがどのような季節なのかどうかだ。日が長いときは労働時間が長くなっても全く構わなかった。1日の労働時間が5時間なのか10時間なのかを別に誰も気にしてなかった。気にする必要もなかった。
それが産業革命が起きて、労働が農業から工場労働に取って代わる。すると労働者の労働する時間を「管理」しないといけなくなった。工場という環境が「全員が同じ時間に揃って働く」ことを必要としたからだ。それぞれが好き勝手にバラバラな時間に働けば、どこかで作業が止まってしまい効率が悪い(これは現代の工場でも変わらない)。だから同じ時間に同じ場所に集まるために、時間1というものが必要になったのである。
そして「効率よく時間を使う」という概念はここに端を発している。短い時間でたくさん生産をできたほうが工場のオーナーとしては儲かるからである。
時間を効率よく使うことはできない
近代以降、人間は時間を管理し効率よく使うことができる、時間を節約できるという価値観に染まった。
僕に言わせれば、そもそもその前提が勘違いだ。人間は時間を効率よく使うことなんてできないし、より良い時間の使い方がわかるほど大層な存在ではない。
まず、明日の自分がどれほど生産性高く仕事できるかは分からない。当然である、その仕事はまだ終わってないのだから。時間は消費し終えて初めて評価が決まるのだ。
縁起でもないことを言えば、明日、僕は心臓発作で倒れて死ぬかもしれない。しかしそれを否定することは誰にもできない。
僕個人だけではない。明日、どこかの国の元首が核爆弾を使って地球丸ごと吹っ飛ばすかもしれない。そういう意味では個々人どころか、人類という種でさえ、いつ滅びてもおかしくない。
そもそも生きているかどうかさえ絶対的なことは何も言えないのだ。にもかかわらず、仕事のアウトプットを正しく見積もれるわけがない。
見たくない現実を見る
ではどうすれば良いのかと思うかもしれない。
まずは幻想を捨て、現実に向き合うことだと本書は言う。
我々は時間を管理できると思い込み、今この瞬間は将来やってくるはずの未来のための準備に使っている。そして、やりたいと思っていることにはいつか必ず着手できると思い込んで生きている。
それは不都合な現実から目を背けているだけだと本書は指摘する。
2,000年以上も前に、ローマの独裁者カエサルは『内乱記』という本にこう書いているという:
「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」
ローマ人の物語V ユリウス・カエサル ルビコン以後
2,000年前のローマ人と我々は全く違う時代を生きているが、しかし同じホモ・サピエンスだ。
たかが2,000年ではこのことは何も変わっていないだろう。つまり、多くの人は自分の見たくない現実から目を逸らしている。
例えば、自分は時間を前にしては無力であるということ、自分のやりたいことに比して自分に残されている時間はあまりにも短いのだということ、自分が自分の意思だけで管理できることはあまりにも少ないのだということ。
それを認めないがために、もっと時間を管理するために、もっと生産性を高めるために努力をする。
努力をしたところで何かが好転するわけでもないのに。
できないと認めて初めてできるようになる
まったく話が変わるが、僕はたまに小説を書いている。
小説を書くのは本当に難しい。書くたびに書き始めるのではなかったと後悔をする。
昔、僕は当たり前のようにこう考えた。「どうすればもっと簡単に書けるのだろう?」
そこで、僕は自分用に小説を書くツールを導入すれば何か楽になる部分があるのではないかと思い、自分で作ってみた。
その結果は一言でいいきれる。別に何も簡単にならなかった。執筆にかかる時間は簡略化されなかった。ツールを導入した結果かえって困難になったことはたしかにない。しかし、ツールは本質的な難しさには何も対処できなかった。
そして、しばらく悪あがきをしたあと僕は諦めた。諦めて時間をかけることにした。そうすると、ツールを改良してどうこうしようとするよりもずっと早く書き上がるようになった。
そう、諦めるしかないのだ。人間は本当に困難なことを短時間で機械的に解決できるほど賢くない。小説を書くなどという、何百年ではくだらない長さの歴史を持つ人間の営みでさえ、難しいことを受け入れなければ実行に移すことはできないのだ。
僕はそれを学んだ。
「希望」を捨てることは人生を始めること
諦めるというとネガティブなイメージを持たれるかもしれない。
しかし、実際はまったく逆だ。時間を管理したいという「希望」は実現不可能な幻想でしかない。
「希望」を捨て、現実に、等身大の自分の能力に向き合おう。そうすると始めて、実現不可能な目標から解放される。
その結果、自分の「本当にやりたいこと」に手をつけることができる。
人間は「自分の本当にやりたいこと」さえも全てを達成できない。不都合な真実だ。僕にもやりたいことは山ほどある。全部できたらどんなにか素晴らしいことだと思う。
しかし、まずその目標は実現不可能であることを認める。やりたいと本気で思っていることさえもやらないと決める覚悟を持つ。
逆説的だけど、その時になって初めて「本当の自分の人生」が始まるのだ。僕は確信している。
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余談だが、腕時計が発明されたのは第一世界大戦中だという。これは元々は大量の兵士が同じ時刻に敵陣に攻撃を仕掛けるためにできたものらしい。